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「LAST SAMURAI」の題材になったとされる西南戦争。西郷隆盛が目指した征韓論。

2022-01-21  カテゴリー:近代化

「LAST SAMURAI」の題材になったとされる西南戦争。西郷隆盛が目指した征韓論。

Photo by Saitou Hajime (licensed under CC0 1.0)

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ラストサムライで描かれた武将

「LAST SAMURAI」という日本ではあまりにも有名な映画で思い出すのは西南戦争だ。西郷隆盛は明治維新の立役者として薩長同盟を編成し戊辰戦争において皇軍を勝利に導いた。薩長の士族は新政府の重要なポストを締め明治維新に突入して行った。

征韓論の廃止

薩摩の明暗を分けたのは征韓論である。朝鮮半島の開国要請をめぐり武力行使派の西郷隆盛は、岩倉具視や伊藤博文、大久保利通など政府要人が渡英している間に開戦寸前の段階まで事を進めていた。

留守政府と言われ、岩倉使節団が渡英している間政府を預かっていたのが西郷隆盛であった。

帰国後その状態に驚いた伊藤博文は思案した結果、病に倒れた太政大臣三条実美に変わり岩倉を太政大臣代理に据え、岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり、明治天皇から勅令が発せられることとなる。

これによって征韓論の閣議決定は無期限延期となった。

明治6年政変による薩長の亀裂

この明治6年政変と呼ばれる事件により西郷隆盛をはじめとする参議の半数が辞職し、軍人、官僚約600人が職を辞することとなった。

西郷隆盛は明治維新後に役目を失った武士を捨てることができなかったと伝えられている。その後起こったのが西南戦争である。

官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人であった。互角の戦いを繰り広げた正に「最後の侍の戦い」である。結果的には人口比で見れば西郷軍は大きな痛手となり官軍が勝利する。

「LAST SAMURAI」の脚本を共同で執筆したエドワード・ズウィック監督はアイヴァン・モリス『高貴なる敗北』の「第9章 西郷隆盛伝」から影響を受けたことを表明している。



POINT

西郷隆盛は残された武士を捨てることができず征韓論を唱えました。西南戦争の末、西郷隆盛の銅像が皇居近くではなく上野に立っているのは皇軍に弓を引いたためと言われています。





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