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池田長発とスフィンクス。侍がエジプト記念撮影とスエズ運河を視察

2020-09-28  カテゴリー:近代化

池田長発とスフィンクス。侍がエジプト記念撮影とスエズ運河を視察

Photo by Antonio Beato (licensed under CC0 1.0)

池田長発とスフィンクス。侍がエジプト記念撮影とスエズ運河を視察

Photo by Unknown author (licensed under CC0 1.0)

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スフィンクス前に謎の侍の集団

最初の写真は侍がエジプトのスフィンクス前で撮った写真。 滑稽な画像としてよく紹介される。灼熱のエジプトで紋付袴姿はなんとも暑さが伝わってくるようだ。二番目の写真はこの一行に参加していた江戸幕府の外国奉行の池田長発です。

井土ヶ谷事件の謝罪にフランスへ

1863年日本で攘夷派とみられる浪人3人が横浜近郊でフランス軍士官を殺害する井土ヶ谷事件が起きた。池田長発を含む34人の使節団は、この件の謝罪と和解を含めフランスに渡った。

パリに着いた一行は皇帝ナポレオン3世に謁見し、フランス政府に事件を謝罪し、195,000フランの扶助金を遺族に支払った。

スエズ運河はアジア植民地化の為の巨大水路

34人の使節団はパリへ向かう途中、上海からインドを経由しスエズからカイロに到着し、スフィンクスの前で記念撮影をした。それがスフィンクス前の侍の写真である。

スエズ運河はヨーロッパから船でアフリカ南端の希望岬を経由せずにアジアに出るために、フランスが建設したアジア植民地化の為のバイパスだ。池田らはそれを視察したのだった。

その後、パリでフランスとの和解は成立し、西洋文明の強大さを認識した一行は、横浜などの3港の自由港化や新たな開港を約束するパリ約定を結ぶ。



MEMO

江戸幕府は横浜港の鎖港の交渉を使節団に命じたがフランスの抵抗で難航し、西洋文化の強大さを見た池田長発は交渉を断念しパリ約定を結びます。



パリ約定を破棄した江戸幕府

池田長発は帰国後幕府に開国の重要性を訴えるが受け入れられず、鎖港の方針であった幕府はパリ約定を破棄し、罰として池田の石高も半分に削られた。その後池田は罪を許され政治に復帰するも、すぐに職を辞し42歳で亡くなっている。果たして池田はこの渡航でどんな真実を見たのでしょうか。

江戸幕府側の開国論者

池田長発は江戸幕府側の人間として開国を求めた。明治維新を起こした坂本龍馬や勝海舟、西郷隆盛とは反対側の陣営である幕府の人間だ。それほどまでに西洋の産業革命のスケールは衝撃的だったと言える。



POINT

維新側は海の外を見て日本の将来を考えたが、江戸幕府は鎖国と幕藩体制を維持しようとしていた。西洋をその目で見た池田は維新側の若者と同じような実感を覚えた。





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