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壬午軍乱から甲申政変、日清戦争までの朝鮮半島 - 天津条約違反が日清開戦の原因

2020-02-22  カテゴリー:李氏朝鮮

壬午軍乱から甲申政変、日清戦争までの朝鮮半島 - 天津条約違反が日清開戦の原因

Photo by Oomoto (licensed under CC0 1.0)

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閔妃は日本型改革論者だった

閔妃は当初、日本型の開化政策を主張していた。日本から士官兵クラスの人間を何人も招聘し、軍事教育を行っている。これに対する反発による大院君側の暴動が、1882年に起こった壬午軍乱である。これに慌てた閔妃は清に接近し、閔妃の要請に応じた清は大院君を捕らえて軟禁して閔妃政権を支援し暴動を鎮圧する。

清に救済を求めたことで柵封政策が明文化

このことにより、清による朝鮮半島の柵封政策が明文化されることとなった。そこで中国志向の開化政策を取るようになった閔妃と、日本型の開化政策を目指す人たちが分裂することになる。

日本型の開化政策を主張したのが金玉均だ。そして1884年に甲申政変が起こる。これは3日天下と呼ばれる、金玉均ら開化派が起こした閔妃打倒のクーデターだが、再び清の力によって失敗に終わる。

甲申政変を支援した日本

この際、甲申政変を支援していた日本軍と清軍の間で局地戦が行われる。甲申政変が失敗に終わっても日清はにらみ合いをつづけ、天津条約を結ぶことで、緊張が緩和される。

条約の内容は、「日清両国とも、朝鮮半島から撤退する。次に朝鮮半島に出兵する際には、事前通告する。」というものだった。つまり、次にどちらかが出兵すれば戦争になるという意味を含んでいた



MEMO

日本と清は都合よく朝鮮半島に使われていましたが一触即発の状態を一時回避します。



ロシアに近づく閔妃

日本と清が撤退した後に、閔妃はなんとロシアに近づく。ロシアと手を組めば、日本と清に勝てると考えたようだ。閔妃は当初は日本、次に清、そして日清が撤退したらロシアの付くという、3つ股外交を行っていたのだ

そんな時に1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発する。暴動を鎮圧出来ないと考えた閔妃は、なんと再び清に派兵を依頼したのだ。

清が朝鮮半島入りするのは条約違反

当然日本には事前通知が届き、天津条約の破棄を元に日本も出兵することになる。これが日清戦争の発端となる。そして、天津条約の裏側で閔妃がロシアと内通したことが、ロシアの朝鮮半島への南下政策を推し進めることになる。

国を捨て亡命した国家元首

日清戦争終結後、1895年閔妃は暗殺され(乙未事変)、1896年高宗はロシア公使館に逃亡し、亡命を図り軟禁状態となる(露館播遷)。そして朝鮮の遠隔統治のようなことをしていた。景福宮に戻った後、大韓帝国を建国するもロシアと通じ続ける。これによりロシアの南下政策は推し進められ、日本とロシアの間に日露戦争が勃発する。



MEMO

韓国の2股政策は今に始まったことではありません。当時は日中露という大国に3股外交を行っていました。



日清、日露戦争の原因となった朝鮮半島

これらをまとめると、朝鮮半島は文明開化が出来ず、いずれかの国の支援で成長しようと思い日本型開化政策を取っていたが、内紛が起こるとすぐに清に泣きつき、開化どころか冊封下になってしまった。

日清戦争は正に、国内問題を自力解決することが出来ずに清に泣きついたことが発端となる。そして次にロシアに近づき、朝鮮半島にロシアを引き込んだことで日露戦争に発展した。



POINT

主体性の無い外交を繰り広げ、日清戦争、日露戦争の発端の一つが朝鮮半島です。そのことを彼らは全く理解していません。





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