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伊藤博文暗殺と日韓併合に反対だった政治人生。征韓論と明治6年政変

2020-05-09  カテゴリー:日韓併合

伊藤博文暗殺と日韓併合に反対だった政治人生。征韓論と明治6年政変

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朝鮮半島を独立させた伊藤博文

1909年10月26日ハルビン駅で伊藤博文が射殺されました。伊藤は朝鮮半島の併合について終始反対の立場でした。日清戦争講和条約(下関条約第1条)で朝鮮半島の独立を明記し清に約束をさせたのは伊藤博文です。

首相の役職は、1901年に退任。韓国統監も1909年6月に退任し、最後の役職は枢密院議長です。議長職とは名誉職ではあるが、中立性を保たなければならないことでもあり、政治的な影響を及ぼすことができない立場でした。

首相でもなく統監でもない議長が暗殺されたのです。



MEMO

暗殺当時伊藤博文は政治的な影響力を発揮できない名誉職という立場に居ました。



征韓論を阻止した明治6年政変

遡ること1873年に日本で起こった征韓論を阻止したのも伊藤博文です。当時は未だ伊藤は若く、32歳でした。これは明治六年政変と言われ、天皇陛下の征韓論の廃止の勅命が下ることとなり、西郷隆盛を始めとする参議の半数が辞職し、軍人、官僚約600人が辞職することになります。

ここで明治維新の立役者であった薩摩藩は政治の舞台から姿を消すことになります。

ブローニング銃の謎

不明なのは安重根が何の目的で伊藤博文を殺害したかということです。殺害と言っても、安重根の持っていた拳銃のブローニング銃の弾丸は伊藤の体内からは検出されていません。

安重根は伊藤の顔を知らなかったと証言し自叙伝にもはっきりと書いている。伊藤博文は政治的な要職から退いていた為、殺害による日本政府への影響や効果は全く無いのです。



MEMO

1909年7月6日、桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」を閣議決定しています。伊藤博文暗殺の前に併合は決定されており、1901年伊藤が総理大臣を辞職したのは朝鮮半島の融和政策を批判された為でした。



彼はいったい何を目的として、朝鮮半島の何を変えたのでしょうか。彼は旅順で裁判を受け、暗殺の理由陳述で15の理由を列挙しています。伊藤と関係がある項目や、全く関係の無い項目も多く在ります。彼の罪名は殺人罪です。



POINT

安思根が使用したブローニング銃は7発装填。現場検証では13発の銃弾が見つかっています。





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